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2011/09/11 (Sun) 09.2月9日(月)~2月11日(水)

名前:aiko 日付:2月9日(月) 5時15分
去年の6月が昨日のようだ。この半年間が、一瞬にして、無内容に過ぎ去っていたことに驚く。俺は半年をまったくの無駄に費やした。本当に何も得るものはなかった。空白だ。

名前:aiko 日付:2月9日(月) 16時14分
こんな夢を見た。兄貴から4242円を明日までに両替してくれ、明日髪を切るからと言われた。国語辞典と壊れた筆箱。兄貴はビジュアル系のギタリストがいつも表紙に載っている雑誌、「ゴーゴーギター」を読んでいた(註:ビジュアル系のバンドがいつも表紙になっている雑誌は正しくは「バンドやろうぜ」など)。俺はその「ゴーゴーギター」、ビジュアル系のギタリストが表紙になっているから買いたくないんだと言った。けれども見たい記事があるから買ったのだ。「ゴーゴーギター」には、オレバンドやウェインショーターのバンドなどのライブでの「マイクのセッティング」のみが写真で大きく20ページほどにわたり紹介されていた。メンバー自身の写真は一切なし。マイクだけではなく、楽器も設置された写真だった。ウェインショーターはギターも弾くようだった。黒いフロイドローズのアーム付きのギターだった。他には、漫画のようなものもあった。ギャグ漫画だった。全神全霊で生きるようなことは、無意味なことであるし、それはギャグそのものにしかなりえない、というか生というものは(生というものを表現する場合)本質的にギャグにしかなりえないというようなものだった。長尾謙一郎のようだと思った。そのあとの方には、女性のヌードの絵(芸術)が20ページほどに渡って載っていた。はじめの方のページは、女性の乳首がぼかされて、少し腐りかけの桃のように痛んでいるように見えるだけで、印象派の影響を受けた明治~大正時代の日本画家のような絵だったけれど、ページを追っていくごとに、乳首が更に桃が痛んだようになり、ついには乳首がぐしゃぐしゃになり、女性の目の周りにもあざができるようになっていた。ムンクの絵のようになっていた。それぞれ、違う画家によるものらしかった。モデルも違う。更にページを追っていくと、女性の目がぼこぼこに殴られたように、乳首はぐしゃぐしゃにえぐれ、女性の目もあざで痛んだ桃のようになっていた。それはもう絵ではなくなっていた。女性の写真だった。次の写真を見る。女性の目の部分に(瞼は閉じられている)蛍光色の緑で「井」の字のように、焼き印のようなものが左右の瞼の上から焼き付けられていた(中南米の民族の儀式のようだ)。それを撮った写真家は書いていた。「ぼくもなぜこんなことをしていたのかは覚えていない」(作品に没頭していたらこのようになっていたのだ)。兄貴はこのヌードのページは俺のいる前では読まなかったようだ。兄弟のいる前でヌードのページを読むのは恥ずかしいから。俺はそこまで読んで、裏の表紙を見た。1260円だった。ヌード写真集のせいで高くなっているのだろう。俺はこれに1260円は出せないと思った。

名前:aiko 日付:2月10日(火) 2時23分
耳を塞いで、目を塞いで…何も変わらない。目を開いていても何も見えないことには変わらない。耳を開いていても何も聞こえないことには変わりない。今に始まったことではないし、特に問題にしてもいない。単なるディパーソナライゼイション。ここは防音室。世界の音を、シャットアウト!!!眼に映る世界は、観念の世界。この時計は俺の思考か?世界が、俺の思考と切り離されることを望む。つまり、考え「が」世界である…ではなく、ちゃんと考えと切り離された世界が存在していてくれること。ディパーソナル!!

仕事は辞めました。

名前:aiko 日付:2月10日(火) 3時21分
そう、自由なんてものは信じていない。まったく信じていない。自由の反対に位置するものは「意志」だ。意志のある限り、自由はない。

名前:aiko 日付:2月10日(火) 3時25分
俺は自由を最も怖れるんだ。

名前:aiko 日付:2月10日(火) 15時27分
安易に自由に傾くのではなく、我々は自分の不自由―すなわち意志と向き合わなければならない。

名前:aiko 日付:2月10日(火) 15時29分
自由を選択することは自己の意志を否定することにもなりうるのだ。

名前:aiko 日付:2月10日(火) 20時31分
半年前に彼が俺にしたことは、「俺が考えること」の否定でもあった。半年間何も考えていないことに気がついた。想像が働いていなかったことに。そう、「存在」というものは、点ではなく、点と点を結ぶ線にある思う。例えば、俺がコーヒーを前にする。その時に生じる俺とコーヒーとの関係性の中に、「コーヒー」という存在、「俺」という存在がごちゃごちゃになって一緒にあるのだと思う(関係性の中に存在はある。コーヒーを前にしている俺は、リビングにいる。テレビもついている。無数の関係性の中に、「混沌」として存在はある)。

関係性を「認識」出来なければ、「自分が存在していないような感じ」を感じているというよりも、《彼は実際に存在していないのだ》。

名前:aiko 日付:2月10日(火) 21時9分
例えば音楽を聞くでしょ?俺が聞いているのと同じものを他の人に聞かせても、俺がその音楽を聞いた時に見たものをその人も見るということはありえないでしょ。俺にとっては「存在」していたものが、その人にとっては「存在」していなかったってわけ。「同じものを見てもいろんな見え方がある」なんていうけど、俺はそういう考えは絶対にしない。「同じもの」だなんてどうしてわかる?ただの符牒ではないか。「見え方」というのにも違和感を覚える。あたかも「ものそのもの」が確かに変わらずに存在しているというような言い草ではないか。まず、厳然とある音楽が存在し、それに対する自分の認識の仕方のみが変化する…本当に、その音楽は「存在」しているといえるのか?世界は絶えず創造されている。音楽を聞いている間も、世界が創造されているというだけのことだ。音楽とは、聞き手と歌い手との記憶が出会うことで、そのあいだに世界が創造されるものだといえるだろうね。音楽はもともと存在しない。

名前:aiko 日付:2月11日(水) 0時12分
エステル。結構かっこいいな。
http://www.youtube.com/watch?v=tG1DPN5xxvE

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