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2011/11/06 (Sun) 09.3月29日(日)~3月31日(火)

名前:あいこ 日付:3月29日(日) 21時42分
逃げても向かってもいない環境で長く過ごしすぎた。「これだけは手放したくない」と思えるような実感を感じられることはまだない。すべてが雑然としていて、どれが自分にとって必要で興味を引かれるのかがわからない。いや、わかっているのか…自分の求めていないことを、自分に対して「これをやるべきだ」と強いる生活を長く続けていると、自分の直感とか、素直な感情が磨耗していく。「虚しい」と感じながらそれを続けることは、自分にとって大切なものを感じる能力をも駄目にしていく。思考優位だからな。

名前:あいこ 日付:3月29日(日) 22時15分
俺はずっと「実感」というものを第一に考えていたじゃないか。その実感というものを軽視するようになったのはいつからだろう?俺はとても自由になったと思う。自分の周りにあるものがすべてゴミのように見えるようになった。未だ、自分には考えしかない。自分の生と呼べるようなものはない。捨てたくないと思えるものがない。危機意識のようなものもない。死ねと言われたら死ねるのだろうか?実感というものがどういうものだったのか、自分の大切にしていたものがどういうものだったのか、思い出せないのだ。指標となるようなものがない…あるのか?いや、それが指標であるのか…いまも指標としての意味合いを持っているのか…まったく絶望しているわけでもない。その「かつて指標であったもの」に張り付いている以外に何もしようがない。生きることはまったくくだらないことであると思う。痛い…?痛みがあったんじゃないか…避けていることに気付いていないだけなんじゃないか…思考優位…精神病理学的に言えば、余りにも当人にとって危険であると思われる実感は、無意識のうちに排除しようとする働きが起こる。それが結果的に現実感喪失(離人症状)となる。

名前:あいこ 日付:3月30日(月) 0時20分
つまり、俺はアイコを全力で見ながら、それを通してジャズを見ている。俺はアイコしか見ていないし、これからもアイコしか見ないだろうが、アイコだけを見ることによってはじめてジャズのことを考えることが出来る。俺はアイコのことを全力で見ているが、同時にアイコの向こう側にあるもの、つまりジャズを見ている。俺はそのようにしてしかジャズを見ることは出来ない。俺にとって重要なのは「ジャズ」だ。俺はジャズのことしか考えていない。「音楽」のことしか。俺はオーネット・コールマンのことを考える。しかし聴きはしない。全力でアイコを見る。その時、それと同じ強度でオーネットを見る。俺はアイコを歌謡曲だとかポップスだとか歌だとか、考えて聴いている訳ではない(当たり前だ!!)。

名前:あいこ 日付:3月30日(月) 0時37分
これは嘘だ。不正確だ。オーネットという固有名詞を出したのが間違いだった。俺にとって「ジャズ」とは誰々の音楽というようなものではないのだから。ニュアンスとしては「音楽」だ。

名前:あいこ 日付:3月30日(月) 18時53分
もちろん、俺は音楽を聴くにしても、形のあるものではなく、形のないものを見ようとしている。そのため、具体的に、実際に鳴らされている音を聴くという習慣をずっと持っていなかった。「音」を聴くという発想自体がなかった。音楽を聴くさい、「音」を聴くというのは、音楽を聴くということとは必ずしも関係していない。音楽はイマジナリーのものであり、耳で聴いて頭で理解するものであってはいけないと思っているからだ。何をしているのかが理解出来ても、聞こえないものは聞こえないのだ。何をしているのかが理解出来ていなくても、聞こえる時は聞こえるのだ(だいたい、演奏を、何をしているのかを理解するとは、どういうことを指すのか?「理解」とは?それがいったいどれだけの価値があるというのか?)。だから、「演奏を聴く」こと、「音」を聴くことはずっと避けていたと言っていい。なんら本質とは関係がないと考えていたからだ。しかし、「音」を聴かない態度をとっていることに対しても、自分の中で反発が起こっているようだ。いままで、俺は音楽のとても限られた一面しか見ていなかったのではないか、と。「『音』を聴くことは音楽の本質とは関係がなく、かえって本質から遠ざかるものだ」というのは、自分は音楽を聴くのが怖いものだから、音楽を聴かないで済むようにするためのエクスキューズだったのではないか?俺が音楽というものに直面することとは、具体的な「音」を聴くことなのではないか?いまになって、「音」は、現実であり、人間の発しているものであり、人間と切り離されるものではないのではないかと気付き始めている。「イマジナリー」というけれども、現実に出されている「音」を聴くことが、イメージを遠ざけるものだと言い切れるのか?そもそも何をもって「現実」というのか?「現実に」出されている「音」を聴こうが、それが自分以外の人間の出した音である以上、自分にとっては現実のものではありえず、想像上のものでしかない。だったら、実際に出されている音を「現実」と理解するのは、たんなる言葉遊びでしかないじゃないか。「現実」なんてのは、「これが現実です」とか、簡単に指し示すことの出来るものではない。「想像対現実」という図式は意味がない。「現実」も想像を介した現実でしかない。イメージから切り離される、純然たる「現実」なんてのは存在しないということを俺は理解していなかったんだろうな。

名前:あいこ 日付:3月30日(月) 20時41分
アイコの音楽を聴いたってどこにもいけない。しかしアイコの音楽を聴くことくらいしか、いまの俺に出来ることはない。いまの俺の求めていることは。その先に何もないのかも知れないけどね。望んでいるような世界はないのかも知れない。

名前:あいこ 日付:3月30日(月) 20時46分
何かを「好きだ」と思えるのは素敵なことだよ。今日、久し振りにアイコのことを好きだと感じたよ。30秒くらいの間だったけど。胸が暖かくなるのね。

名前:あいこ 日付:3月30日(月) 22時46分
「不況であるからこそ、時代に必要なモノは残り、必要以上のモノや本質をとらえていないモノは淘汰される」
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20090330-00000023-trendy-ent

名前:あいこ 日付:3月30日(月) 23時2分
自分の中に生命力があるかどうかは自分でわかる。気がめぐっているかどうかはね。生命力のない状態では何を見ても、何をしても無駄だと言える。なんの感激もない状態ではね。目でなぞるだけなのだから。

名前:あいこ 日付:3月30日(月) 23時48分
えろい女が好きだ。女を感じさせる女が。ちんぽのしゃぶり方を見ればわかる。恍惚の表情。男を見る時の顔つきでもわかるけど。セックス大好きですって感じの女が好き。かわいくても、クリーンな感じのする女は駄目だ。男を見ては、ちんぽの匂いを想像してうっとりした顔つきで男を見るような、そんな女がいいわけ。それで恍惚の表情でちんぽをしゃぶる。おいしくてしょうがないという感じで。

名前:あいこ 日付:3月30日(月) 23時52分
かわいさよりもえろさ。その点では、この女はなかなかいい線いってる。そんなにかわいくなくたって、えろけりゃかわいく見えるというか、惹かれる。えろさとバイタリティ、つまり生命力とは深い関係にある。生命力のある人間は魅力的に見えるというわけだ。
http://galleries.payserve.com/1/35712/14456/index.html

名前:あいこ 日付:3月31日(火) 0時1分
綺麗なだけの音楽は人を感じさせないのと同じように、綺麗なだけの、かわいいだけの女も、人を感じさせはしない。結局、人を引き付け、感じさせるのは生命力であるってことだ。言うまでもなく、生命力というのは身体と密接だ。すぐれた芸術は身体に訴える。少なくとも、俺は芸術とはそうあって欲しいと思っている。

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