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2011/11/11 (Fri) 09.4月4日(土)~4月5日(日)

名前:あいこ 日付:4月4日(土) 13時45分
ずっとレコードが好きだったの。ジャズのレコードなんか名盤が500円以下で買えたし、音もCDとは比べ物にならないくらいよかった。レコードさえあればCDなんかいらないと思っていたわ。けど、レコードを聴き始めて5年くらい経った頃だったかしら。ちょうどいまから一年前くらいのことね。私の聴いてたレコードプレーヤーの音程が狂っていたことが分かったの。同じアルバムをCDで聴いたら気持ち悪くて聴けたもんじゃなかったわ。間違った音程に慣れてしまったのね。それ以来、自分の信頼の置いていたレコードを聴けなくなってしまったわ。「聴いてはいけない」と思った。聴いていても、常に「これは間違った音程なんだ」という思いが付いて離れず、聴けば聴くほど間違った音程が身についてしまい、正しい音程で聴けなくなってしまうんだと思うと、怖くて聴けなくなってしまった。レコードのジャケットを見ることすら怖れるようになったわ。あれだけ好きだったのにね。

名前:あいこ 日付:4月4日(土) 14時11分
ジャズというものは、俺にとってはそれ自体が無意味であると教えてくれるために存在するものでしかない。しかし、何故無意味な寄り道をしなくてはならないのか?無駄に時間を、人生を費やさなければ自分にとって何が必要かすら分からないのか?ジャズはくだらない。何故俺は、こんなジャズなんかと縁を切ることが出来ないでいるのだろう?たんなる現実逃避なのか?

名前:あいこ 日付:4月4日(土) 15時6分
俺はずっとここで、嘘と本当のこととの間の境界を探っているとも言えるのだけど、それでは、いまのこの発言は嘘だろうか、本当だろうか?境界なんて探ってはいなくて、俺は実は本当のことしか話していないのかも知れない。俺自身がそれを本当のことだとは認めていないとしてもね。結局、嘘の積み重ねでしか人は真実を伝えられないというか(笑)、何が本当のことかなんて俺には分からない。

名前:あいこ 日付:4月4日(土) 15時23分
下のは無しで。最悪だ。

名前:あいこ 日付:4月4日(土) 23時21分
「エネルギー」を自分のうちに感じることがある。生きているエネルギーを。それは、俺が自分のうちにエネルギーを感じることのない、どろどろとした、精神の緊張のない、精神の滞った日々を長く過ごしているからだろう。何故自分をこのような環境に置いているのかというと、精神の緊張した、恐怖と欲望の調和の取れた精神活動の状態で時間を過せば、いろんなものに興味を持つことが出来る。あれもしたい、これもしたい、となる。俺はこの状態に一種の恐怖を覚えていたといえる。俺はある一つの物事にとらわれていて、いろんな物事に興味を持つことは、自分のとらわれている、そのある一つの物事から自分を遠ざけることになるのではないか。だから、精神の緊張のない、精神の滞った、どろどろとした環境の中で時間を過した場合、自分は何を求めるのだろうか?「あれもしたい、これもしたい」という風に、いろんな物事に興味を持つことの「出来ない」環境の中で、俺にとっていったい何が意味を持つのだろうか?俺はその環境の中で何を欲するのだろうか?それが知りたかった。そのような、どろどろとした状態でも、自分の失いたくないものというのがあるのではないか?

名前:あいこ 日付:4月5日(日) 3時33分
なんなんだろう、このまつわりついてくる感じは。体全身が生ぬるい膜に覆われている。何かをやるにしても、それを求めている時にやらないと意味がない。「これをやった」という既成事実にはまったく意味がない。楽器を「やりたい」と思ったことは、また、楽器を「楽しい」と思ったことはこの一年間で一度もなかった。それなのに「楽器に関わることが重要なのだ」とか変な考えに自分を押し込めてさ。興味も持てない、楽しいとも思えないことに自分を向かわせていると、擦り切れていくように感じる。自分の目から後頭部にかけて焼き切れていく。単純に言えば「無理をしている」わけだよ。あれほど自分にとって大きなものであったものに対してなんの興味も憧れも持てなくなっていて、しかも興味や憧れが他のものにシフトしたわけではなく、ただ単純に「なくなってしまった」となれば、そのかつて自分の憧れていたもののところをうろうろしてしまうわけですよ。

本当に、自分が「楽しい」と思えることをしないと意味がない。頭で「かつて憧れていたはずだから」とかいって、自分をそれに向かわせ続けることには意味がない。「何故憧れがなくなったのか」、その根本的な原因の方を相手にしなければいけない。

何故、俺はいま、何に対しても憧れを感じられないのか?何故、「こうなりたい」とか、「こういうことがしたい」とかいうような強い欲求や劣等感がなくなってしまったのか?

それらを無視していては、楽器をやって演奏できるようになったって、本を何冊も読んだって意味がない。希望もない癖に、楽器なんか演奏できるようになりたいとなんか思ってもいない癖に、本なんか読みたいと思ってもいない癖に。

何故、俺は何に対しても憧れを感じられないのか?何故「こうなりたい」というものがないのか?それらについて考えること。それらを取り戻すこと。それ以外に俺のやるべきことはない。

名前:あいこ 日付:4月5日(日) 4時8分
世界は笑っている者のためにあるのです。俺なんかのような笑っていない人間は笑っている人間によって排除されるし、笑っていない人間のことを誰も好きになったりはしないのです。誰かに愛される人間というのは笑っている人間なのです。

誰かに愛される人間はたくさんいるように見えるが、彼らは皆、超人的な努力をしたのだろうか?俺は自分が誰にも愛される見込みがないように感じるのだけど、笑っている人たち、つまり誰かに愛されている人たちは、俺なんかとは比べ物にならないくらいの超人的な努力をしてきたんだろうか?街で見掛ける若い人たち、楽しそうにしている大学生たちは、俺なんかとは比べ物にならないくらいの努力をしてきたのだろうか?

もしも、笑っていること、愛されていることが努力と関係がないとしたら?彼らは生まれつき笑っている?愛されている?俺は、生まれつき笑ってはいない?愛されてはいない?

生まれつき笑っている人が、誰かに愛される能力を持っていて、愛されることにより更に笑うことが出来る?

生まれつき笑う能力のない俺は、誰かに愛される能力を持っていない?愛されないことによって更に笑うことから遠ざかる?

結局この世界は俺のような人間のためにあるものではない?楽しく笑うことの出来ない人間は死ぬ以外にない?

愛される人間は生まれつき笑っている人間?努力とは関係ない?

結局、楽なことをしているやつが愛される?楽に生きてこなかった人間は誰にも愛されない?

「楽に生きてこなかった罰だ」?

「笑ってないやつは死ねばいいのだ」彼らはそう言っている。

笑っている奴が愛され、ますます笑う。笑わない人間はそもそも愛されもしない。

生まれつき。笑っている人間に振り分けられた奴は生きていて歓迎される。笑っている人間に振り分けられなかった人間は、生きていて排除される。無視される。死んでもらった方が、目障りではない。

世界は笑っている人間たちのためにある。どこに行っても、結局は笑っている人間たちのために用意されたものしかないのだ。笑っていないぼくたちはどうすればいい?「知らないよ、そんなの」。世界のどこを見ても、「笑っていない人間は死ね」。どんな「救い」も、笑っている人間のために用意されたものだ。本当に救いを求めている人のことを、誰も救ってくれはしない。

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