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2012/01/29 (Sun) 09.5月25日(月)~5月27日(水)

名前:あいこ 日付:5月25日(月) 15時0分
無意味なことをやめなければならない。「無意味なことを続けるのが正しいのだ」と教わってきたので。自分の生きたいように生きてたら、何故か俺を治療しようとしてくる輩が現れたりね。そいつは俺に「お前の求めているものはくだらないものだ。だから俺の言う通りにしろ」と言葉では言わないけど、それを態度で表して、俺を「導こう」とするわけよ。常に、俺が俺の意志のままに生きてることを否定してくるわけ。俺は、未だに自分の意志のままに生きることを自ら否定しているわけ。それで意味のないことを続けているわけ。影響下にあるんだな。自分の意志のままに生きられるようになるまで、何年かかるかわからない。その間に、俺は失い続けるわけ。失うことの苦しみを感じながら、これから何年間も生きていかなければならないことはわかっている。ずっと、「あの七月のことがなければ」ということを思いながら生きていかなければならないこともわかっている。それで、何年か経って、やっと自分の意志のままに生きられていると思えるようになっても、そこでやっと去年の六月の時点に戻ってきたというだけに過ぎないわけ。そこでやっと、「俺はこの何年間かを奪われたんだ」と思えるようになるだけ。それで、その時には自分の人生が手遅れになっていることがわかるだろう。

名前:あいこ 日付:5月25日(月) 16時11分
誰かを愛せなければ自分を愛することも出来ないし誰からも愛されない。自分を愛せなければ誰かを愛することも出来ないし誰からも愛されない。

名前:あいこ 日付:5月27日(水) 16時31分
もう駄目かも知れません。病院へ行っていると、自分の体に余計なものがくっついているようで、振り払いたくなるのです。自分は何を求めているんだろう?本当にわからない。病院へ行くのを辞めると、自分が自分であるように感じ、自分は世界と生身で対峙しているのだと感じる。自分の内から叫びのようなエネルギーが常に外に出ようとしているのがわかる。怒りのようなものも強くなる。こっちの方が自然であると感じる。少なくとも、その不安は自分をどこかへ導くように感じる(病院へ行っている時の不安は先に繋がるような感じはせず、ただその時々に存在するだけだ)。

なぜ再び病院へ行きだしたのかというと、あの目が見えなくなる感じが現れたからだ(しかしこれは一時のもので、これが現れる度に病院へ行っていたらキリがないんじゃないか?)。病院へ行くのを決めたのは、今回病院へ行く五時間前だったと思う。衝動的なのだ。どの感覚が信用できるのかという問題だ。常に自分の感覚を凝視している。「何をするのか」というのは問題にしていなく、「これに対峙した時にどのような感じがするものか」、そういうのを知りたいというか、自分が世界においてどのような位置に立っているのかがわからないから、それを知りたいのだ。

「自分の人生」を生きることが、いまの自分の求めていることだと言ったのは何日前だったか?今日、再び病院へ行きだして、早くも、自分のいま求めていることは「自分の人生」を生きることだと再認識しだした。病院へ行くのを辞めたときは、病院へ行っている限り、「自分の人生を生きている」という実感を感じられることはない、と感じていた。

名前:あいこ 日付:5月27日(水) 16時59分
目が見えなくなる感じは地獄のようだし、しかし、その地獄が俺にとっての現実なんじゃないのか。その地獄を汚いものとして排除しようと試みれば、また別の部分で欠陥が出てくる。つまり、自分の現実をそのままに生きようとするのを中断することであるから、そのようなことをいつまでも続けていても、何を得たという実感も手にすることは出来ないだろう。

そして、俺はいま、もう早速、病院の予約をキャンセルしようとしている。どの感覚を信じられるかという問題。

あの、「一日を生きるのも困難な状況」がやってきても、病院に逃げ場を求めるべきではない。

例えば、昨日、俺は音楽の活動をしてみようかと思ったのよ。「俺はもしかしたら、音楽をやりたいんじゃないか」と思い出したというか気付いたのよ。

「音楽を聴いていて、人間が感じられるか、生き生きとしたものとして感じられるかというのは、自分の人生を生きているという実感に拠っているんじゃないのか」と思った。自分が具体的に音楽の活動をすることを少し想像してみた。それだけで、音楽の聞こえ方がまるで変わってきた。ライブのDVDを見ていて、「そうだ、この観客たちは、それぞれ自分の人生というものを生きているんだ。それぞれの人生を生きているんだ。その上で、このライブの会場に来ていて、ライブを楽しんでいるんだ」ということに気付いた。俺は自分の人生を生きているのか?と考えた。音楽を聴く。漫画を読む。学校へ行く(行かない時期も多い)。これだけで、「自分の人生を生きている」と言えるのだろうか?俺は、「これが俺の人生だ」といえるのだろうか?

ここにきて、「俺は楽器をやっていないと、自分の人生を生きていると感じることは出来ないんじゃないのか。楽器をやるということは、演奏活動をするということは、俺が自分の人生というものを生きる上で、とても(一番?)重要なものなんじゃないのか」と思った。

ライブ会場の観客の顔を一人ひとり見ていて、「この人たちはそれぞれ、違う人生を生きているんだよな」と思った。ある人は研究職かもしれない。ある人は薬剤師かも知れない。ある人は作家かもしれない。ある人は会社員かもしれない。じゃあ、俺は何をしている人なんだろう。

演奏の活動をすることは俺が逃げていることでもある。

名前:あいこ 日付:5月27日(水) 17時17分
「病院へいく」のも「病院へ行かない」のも三ヶ月は続けてみなければ、何もわからない。決意もないのに病院へ行くべきではない。逃げ込むのではだめだ。これから、三ヶ月、病院へ行き続けるか?すぐにキャンセルして、病院へはもう行かないことに決めるか(少なくともあと三ヶ月は)?どちらかだろう。

名前:あいこ 日付:5月27日(水) 20時8分
病院へは「助けを求めて」行っているはずなのに、病院へ行くことで、「病院が自分を救ってくれる」というような安心を感じることはなく、むしろ逆に「病院が自分を更に難しい状況へ追い込む」という恐怖の方が大きい。

俺の抱えている問題は、記憶の問題なのだ。自分の身に起こったことを上手く繋げられるか。それで、自分のいる場所を理解できるか。そのためには、変化しないことが最も重要なのだろう。

名前:あいこ 日付:5月27日(水) 20時20分
いまの自分の置かれている状況は、絶望よりももっと酷いと思う。絶望することも許されていないように感じる。自分に起こるどのような感想も、自分の感想として信用することが出来ない。絶望している?「絶望していないのでしょう」。希望を持っている?「希望を持ってはいないのでしょう」。そんな感じ。結果、感想なんてないのと同じ。しがみついていいものがない。

無理だ。

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